あの日もこんな雨だった。
会社のクライアントへ書類を届けた帰り道、
突然降り出した雨にバスに乗ることにした梨花だったが、
バスはなかなか来ない。
バスに乗ってしまえば、駅まで10分。
たいした時間ではない。
でも道路が混んでいるのか、30分待ってもバスどころかタクシーも来ない。
梨花よりも先に待っていた男は40代半ばくらいだろうか。
男もまた手持ちぶさたに、ただ雨を眺めていた。
「ひどい雨ですね。」
男が話しかけてきた。
「そうですね・・・。」
「もしかして、ものすごく疲れています?」
あまりにぶしつけな質問に梨花はびっくりしたが、
「いえ。」
とだけ答えた。
本当は昨日彼とけんかをして、
「もう今度こそ別れる。」
そう考えて一晩中泣いていたので一睡もしていない。
でもクライアントとの約束があったので、今日は休めない。
目の下のくまが梨花の疲れを物語っていた。
そんな答えを無視するかのように男は続ける。
「実は僕、たった今離婚届にはんこを押してきたところなんです。
中学生と小学生の娘がいるんですが、親権は妻に。
月に一度だけ会えることになりました。
娘達は妻の味方で、僕は嫌われているから会えるかどうか。」
「そうですか。」
梨花はとりあえず相づちをうつ。
たまたまバス停で一緒になっただけの梨花になぜそんな話をするのだろうか。
男は続ける。
「僕の浮気が原因なんです。
よくある話ですが、遊びのつもりが、妻にばれて。
失ってから大切さに気づくというのは本当なんですね。
おこってしまったことは、もう元には戻せない。」
やっとバスが着た。
男はバスの方をみる。
「あなたも大事なものなら、絶対に手放してはだめですよ。」
そういってバスに乗り込んだ。
その夜、梨花は彼と仲直りをした。
考えてみれば、けんかの原因はささいなことだった。
そのときは、それが二人のすべてのように思えてしまったのだ。
その後、彼は梨花にプロポーズをし、二人は結婚した。
それにしても男はなぜ梨花にそんな話をしたのだろう。
そもそもあの話は本当だったのだろうか。
今ではあの男が実在したのかどうかさえ、あやしい。
ただこんな雨の日には思い出す。
あの男のことを。
そして彼が今幸せであることを心から願う。
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